古河ゆかりのプロレタリア作家というと若杉鳥子の名前が思い浮かびますが、プロレタリア文学運動を語るうえで欠かすことの出来ない文学者が古河と関わりを持っていたことをご存知でしょうか。その人の名は、上野壮夫(通称ソウフ戸籍上はソウオ)。壮夫の次女堀江朋子さんの「風の詩人―父上野壮夫とその時代」が3年前の1997年6月上梓され、壮夫の人生と作品の全貌そして壮夫が生きた時代、同時代を生きた人々について新たな光が当てられるととともに、古河との関わりについても明らかになりました。
上野壮夫は、明治38年(1905)6月2日、茨城県筑波郡作岡村(現在つくば市)大字安食で、地主、警察官の父清三郎と母とくの四男一女の三男として生まれました。父の赴任に伴い、小学校時代は近在の学校を転々とします。鬼怒川縁の川島、結城郡上山川、宗道、そして古河。その後茨城県立下妻中学(旧制・現下妻一高)から早稲田高等学院露文科に入学。(昭和3年出席日数不足等により除籍)大正14年(1925)三好十郎、坂井徳三らと詩誌「アクション」を創刊。プロレタリア詩、文学運動に加わっていきます。この頃壮夫の生活を支えた女性がいました。壮夫は父の赴任先の古河に帰省した時にその女性と知り合い、上京後同棲を始めます。二人の間には、男の子が生まれますが、やがて彼女は結核にかかり30代という若さで亡くなりました。壮夫と親交のあった本県出身の農民版画家の飯野農夫也氏は、このひとを「上野壮夫を開花させた女性」と語っています。
昭和3年5月から昭和6年11月まで入隊の時期を除き「戦旗」の編集と、戦旗社の運営に情熱を注いだ壮夫でしたが当局の度重なる弾圧により、戦旗社は終焉を迎え、小林多喜二の死後、プロレタリア文学運動は事実上崩壊、治安維持法違反の最終公判の日に転向声明を出し、獄中から出ることとなりました。
戦後の壮夫は、転向の痛みを抱えつつも、コピーライターの草分けとして活躍しますしますが、詳しくは、堀江さんの著書をお読みください。
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