古河における主要災害とその被害 |
| @水害 寛保2年・宝暦7年・天明6年の洪水の被害は大変であったようである。 特に天明6年の洪水がそうであるように、天明の浅間焼けにおける降灰により、河床が高くなってしまい、天明以降水害が頻繁になる。 古河の河岸問屋の井上家の「寛保弐戌年 宝暦七丑年 天明六午年 洪水」によれば、寛保・宝暦・天明の大水を次のように記録している。 ・寛保2年8月1日 洪水2丈1寸 ・宝暦7年5月3日 洪水1丈8尺2寸 ・天明3年7月 信州浅間山より焼砂降りならびに泥吹山にも大変 ・天明6年7月14日 終日雨が続く。北東の風。 ・ 同15日 雨天。雷。夜北東の風。夜増水。1丈7尺7寸。 ・ 同16日 昼時々雨天。夕七時雷大雨。昼四時野渡より堤押切、その後堤悪体越。夜2丈3 尺3、4寸。ただし座敷・床上に水2尺5寸。もっとも寛保洪水の節も床上に油樽を置き、荷物を積んだ。 ・ 同17日 時々雨天 ・ 同18日 時々雨間に晴 ・ 同19日 時々雨間に晴 ・ 20〜晦日 降りがち A地震 現在でも関東地方の地震の震源地として、茨城県西南部があげられるように、大地震ではないがしばしば地震はあったようである。 弘化4年の善光寺地震においては、善光寺参りをしていた古河の人物が災害に巻き込まれたようすが、古河藩の家老鷹見泉石の日記にうかがわれる。 安政2年の江戸大地震では、古河藩江戸上屋敷(大名小路・現在の帝劇周辺)が倒壊し、35名(資料によって人数に差があるが)の死者を出した。また、国元の古河では、古河城本丸の北側の塀・石垣の大破、冠木の破損、番所の倒壊などがみられた。藩領の柏戸村(現・埼玉県北葛飾郡北川辺町柏戸)では、家屋の倒壊があったことが、「御用留」によってうかがい知ることができる。 古河藩上屋敷の倒壊は、古河藩領の村々にも伝えられ、領民によって義捐金を出す伺い書も「御用留」の記事に見ることができる。また、多くの鯰絵にみられるように職人層が、震災景気で潤ったように、古河からも職人らが、上屋敷の補修のために多数江戸へ出て行き、一ヶ月ほど藩邸の修復にかかった。 B火山 火山で、古河が直接的な影響を受けるのが、浅間山である。 浅間山の噴火において、最大規模の被害があったとされる「天明の浅間焼け」においては、降灰の影響を多大に受けている。 古河の河岸問屋井上家の資料によれば、天明3年7月5日には、一坪集めると一升ほどになった、7月8日には、一坪五升になったとある。また、「但七日七(つ)前後より八日朝方景気如何可成哉と諸人驚いたし世上鉦太鞁をうち百万遍等昼夜信心相聞専要之時節也。砂所々より厚弐三寸壱坪五升位より其余ハ所々不用之沙汰ニ候」と、人々は鉦太鼓を打ち、百万遍などを行い、祈願するようすがうかがえる。 このときの様子は、古河の飯田家の『古河日記』に他の災害とともに詳細に記されている。 |