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鷹見泉石 略歴 |
| 天明5年(1785)6月29日、古河藩御使番鷹見忠徳の長男として、古河城下の四軒町屋敷内に誕生。通称は、はじめ「又蔵」、家督の後、「十郎左衛門」を名乗る。諱は「忠常」。西洋名に、Jan
Hendrik Dapper(ヤン・ヘンドリック・ダップル)があり、好んで書簡のやりとりに差出名として使っていた。ほかに「楓所」、「泰西堂」、「可琴軒」、「伯直」、「泉石」などの号を持つ。 初出仕は、寛政9年(1797)、13歳のとき調役給仕。 文化4年(1807)23歳、父の病死にともない家督を相続、250石を許されている。 翌年には目付、同10年正月、者頭に、同年閏11月には用人役にすすむ。同11年、30歳で家老相談に加わった。翌年3月御馬御用掛、同13年9月公用人兼帯となる。 文政5年(1822)5月、39歳のとき、30石加増。同年7月、藩主土井利厚の死去につき新葬御用掛、新藩主利位の家督御用掛となっている。文政10年には、利位のもとで用人上席となり、同年5月、番頭格(役高300石)となった。 天保2年(1831)2月、47歳にして、家老への昇進(役高500石)を果たしている。同5年5月、藩主利位大坂城代就任にともない、大坂へ移転。同8年3月、大塩平八郎逮捕の功績により感状および小刀を拝領する。同年5月16日には、利位の京都所司代転任のため、同地へ移転した。 翌年4月、泉石54歳のとき、西丸老中に就任の藩主に従い江戸へ帰府。弘化元年(1844)、藩主利位の老中辞任。同2年、泉石は61歳にして50石の加増をうけ330石となるが、翌年、家老免職となり古河に隠居を命じられている。 泉石は、古河に隠居するまでのおよそ50年間を、二人の藩主、利厚・利位に仕えた。利厚、利位とも幕府の要職である寺社奉行・京都所司代・老中などを歴任しているが、その側近として、江戸・大坂・京都の諸地に従っていることがわかる。 安政5年(1858)7月16日、古河長谷町の隠居屋敷(博物館に隣接。現在、鷹見泉石記念館として公開)で没、74歳であった。 |